とうつきの本棚

本に纏わることの記録。

『食堂かたつむり』小川糸

恋人にすべてを持ち去られたショックで、声までも失った倫子。山あいの田舎に戻った彼女は、一日一組限定の食堂を開くことにした。食事と人間模様を描いたおとぎ話。

 

作中で調理の様子が丁寧に描写されているのが楽しい。著者と主人公が食事を大切に思っていることが伝わってくる。ご飯の描写が美味しそうな作品は好きだ。

しかし、食堂の開業と運営には現実味がない。

まず店舗は実家敷地内にある母親の愛人(ゼネコン勤務)からプレゼントされた小屋である。一文無しだが母親から借金してこだわりの内装を整える。備品はあちこちから都合良く貰ってくる。食堂は一日一組限定で、材料もこだわりをもって揃える。「願いを叶える」なんてジンクスと共に、評判が広まって繁盛する。
これらに貢献するのは「熊さん」という男性だ。倫子が小学生のときの用務員さんで、長年村に住んでおり顔が広い。必要な人や物や移動手段を用立てしてくれて、呼べばいつでも力になってくれる朗らかな男性である。

……いやそんな都合良く物事が進むかーい!と突っ込みたくなる。一日一組限定で材料もこだわって、いくら家賃も賃料も掛からないとはいえ、それで生計を立てていく気があるんだろうか。「自分の店を開きたい」という夢を叶えるためだけのおままごとみたいだ。

 

ただ、この辺は「この作品はおとぎ話である」と捉えれば読めなくもない。願いを叶えてくれる魔法使いが熊さんで、困ったことを全て解決してくれる。多少の波乱はあれど、物事は万事上手く進む。
物語の序盤で恋人に裏切られた状況や、その前に恋人と料理店を開こうと貯金をする様子、失意の中帰った村の寂れた描写などからは、ひんやりとした現実を感じる。その分、何もかも上手く行くおとぎ話の様な明るさが違和感をもって際立っていた。

 

 

……書きながら思ったが、この「食堂かたつむりの運営はおとぎ話だった」はあながち間違っていないかもしれない。ここからはネタバレを含めて書いていくが、

①恋人に裏切られて全財産を失い、声も失って実家へと帰る。
②辿り着いた実家で熊さんと再会し、実家敷地内の小屋で食堂をオープンする。不仲な母(シングルマザー)や愛人に辟易としつつも、食堂は繁盛。様々なお客さんが訪れ、それぞれに合った料理を作る。
③母がガンで余命数ヵ月と発覚。初恋の人物と再会した母の結婚式を見届けるが、その死で気力を失って食堂は休止。自分の食事はインスタント食品ばかり。
④窓ガラスに激突して亡くなった野鳩から母の声を聴いた気がして、久しぶりに料理をする。前を向いて生きていくことを決意。声も出るようになる。

不幸な状況に追い詰められるが(①)、場所を変え良い人たちと出会って幸せな生活を送る(②)。熊さんは願いを叶えてくれる魔法使いだ。懸念事項は大体なんとかなるし、母との確執以外は不安な事柄も描かれない。この作品の大部分である②は、さながらおとぎ話の幸福なワンシーンである。

普通のおとぎ話なら②をもって閉幕する。ただ、現実はおとぎ話ではない。確執はありつつも唯一の肉親の死があって落ち込み(③)、とある出来事からもう一度前を向く(④)。④で声が戻ることからも、①で傷ついた心が再び現実を向くのは④である。

この作品は、厳しい現実から逃げて、おとぎ話のように幸せな世界で暮らして心を癒し、もう一度現実に向き合う流れを描いていると感じた。

そう捉えると、おとぎ話を脱出して現実に向き合った倫子と「食堂かたつむり」は、幸せなばかりではないかもしれない。過疎が進む村で来客が減るかもしれないし、物価の上昇で資金繰りに苦労するかもしれない。従業員を雇ったら、昔みたいに全財産を持って逃げられるかもしれない。でも、それが現実だ。

現実へと戻った「食堂かたつむり」で、もう一度倫子に頑張ってほしい、と思った。